エンジン整備の慣例を覆す
若手整備士の挑戦

2026 / 01 / 22
その他

「このエンジン、合格するはずなのに――なぜ?」

ある整備士の疑問から、世界の基準が動いた。ANA整備センターの若手たちが挑んだのは、航空業界では絶対とされるエンジンメーカーの「エンジン性能評価基準」の改革だった。「変えられない」と思われていたそのルールは、誠実な分析と行動によって覆されることとなる。

プロジェクトを主導したのは、当時入社6年目だった目黒 史也。世界的エンジンメーカーと直接交渉し、エンジン性能評価の世界基準を変える――そんな前例なき挑戦の背景には、「若手の声に耳を傾け、信じて任せる」ANAグループの組織風土があった。

納得できない不合格。立ち止まらなかった整備士たち

ANAグループの国際線を支える主力エンジン「Trent1000」。整備工程やマニュアル通りに仕上げたにも関わらず、試運転で不合格になる例が相次いでいた。その割合は一時、60%にものぼった。

「ちゃんと整備したはずなのに、なぜ?」

プロジェクトリーダーの目黒は、当時の心境をこう語る。「自分が手をかけたエンジンが原因もわからず『不合格』になる。整備士として、こんなに悔しいことはありませんでした」

不合格となれば、エンジンの再整備や交換、便のキャンセル・遅延など、負の影響が連鎖する。現場では「再試運転すれば合格するかも」と、莫大な燃料コストをかけてテストを繰り返すこともあった。

「誰もが『これはおかしい』と心のどこかでは思っていました。でも、評価基準は大手メーカーが定めた世界標準。それまでは『変えられない』と、皆どこかで諦めていたんです」

それでも目黒たちは、悔しさから、疑問を持つことをやめなかった。変えられないはずの常識に、整備士としての誇りをかけて挑む――その静かな火種が、この改革の原点だった。

プロジェクトメンバーや整備士の後輩と

専門性を武器に、膨大なデータを分析 不合格の真因に迫る

まず彼らが取り組んだのは、Trent1000の整備情報を集約した専用データベースの構築だった。手書き資料をすべてデジタル化し、運航データや試運転データ等、性能に関わるあらゆる情報を1つのデータベースに集約する、6か月がかりの地道な作業。しかし、整備士としての知見とITスキルを持つチームメンバーが一つひとつ目を通しながら進めたことで、仮説や気づきが次々に浮かび上がった。

「自分たちの手で入力するからこそ、見えてくるものがある。専門性を活かせる『分析の入り口』だと考えていました」

そして、構築したデータを丁寧に分析していく中で、ある「前提を覆すような仮説」に行き着いた。整備や作業ミスではなく、評価手法のどこかに何らかの原因があるのかもしれない。エンジンメーカーによる性能評価手法にズレがあるのではないか――。

根拠となるデータはある。分析の精度にも自信がある。ならば、ここで手をこまねいているわけにはいかない――現場の整備士たちは膨大な試運転データを基にエンジンメーカーの「性能評価基準」に見直しを申し入れるという、前例のない挑戦に踏み出した。

世界企業へ勝負を挑んだ若手整備士 前例なき「逆転劇」の舞台裏

現場から挙がる性能評価手法見直しの声に、メーカーは理解を示しつつも、当然ながら受け入れるには時間がかかっていた。

「エンジンメーカーによる性能評価手法にズレがあるかもしれない」――そんな若手の主張は、簡単には届かない。

正確に理解してもらうためにも、自分たちの分析の正しさを直接証明するしかないと考えたんです」

現状打破の一手として彼らが提案したのは、前代未聞の「予測分析対決」だった。ANAとメーカーが、それぞれ試運転前に性能を予測し、どちらの分析がより実態を表しているかを比較する。ANAの分析精度が上回れば受け入れてもらえるかもしれない。

ロールス・ロイス社でのプレゼンの様子

――結果、条件によってはANAチームの分析がより高い精度を出すことが確認された。ANA側は、現場で得た整備データを独自に分析し、試運転工程における環境影響を加味した予測モデルを構築。地道な実測値との突き合わせが、精度の差を生み出した。「現場を知る整備士が自ら手を動かしたからこそ、見えた数字があった」と、彼らは振り返る。

これをきっかけに、ANAの予測モデルは一目置かれる存在に変わっていく。メーカーの技術者との直接交渉が実現し、初めて相手の分析ロジックも開示された。「建設的な議論ができたのは、お互いが技術者として向き合えたから。立場や年次ではなく、『良いエンジンをつくる仲間』として接してくれたのが印象的でした」

国境を越えた技術交流。そのきっかけをつくったのは、現場に芽生えた、たった一つの疑問だった。

世界のルールを変えた、現場の問いかけ

ついに、エンジンメーカーが、ANAが提案した手法を正式に受け入れる判断を下した――。若手整備士たちの分析と行動が、世界の基準を変えたのだ。

「メーカーの技術者から『ANA’s method is significantly better on certain engines.』と、性能評価手法を修正する内容の技術文書を手渡された時は…震えました。自分たちの知恵が、世界のルールになった。その重みと誇りは、今でも忘れられません」

ロールス・ロイス社のエンジニアと

彼らの挑戦の成果は、ANAの整備現場での課題解決にとどまらない。世界中のTrent1000の試運転品質を高めることにもつながる。エンジンメーカー側からも「ANAのおかげでTrent 1000をより良いものにすることができた」とコメントをもらった。

“Working with ANA over the last couple of years has been a fantastic experience to better understand the needs and working practices of one of our customers. ANA’s detailed knowledge of the performance evaluation process and rigorous data capture was beneficial in developing the improvement. I am pleased that our collaboration has led to an improvement that has significantly reduced the number of engine rejections at pass-off on the Trent 1000 Package C which has decreased disruption for ANA, Rolls-Royce and other Trent 1000 operators. It was a pleasure to welcome Meguro-san and team to Derby for two productive workshops as it helped improve our working relationship and deliver the necessary improvement.”

「この数年間、ANAと協業できたことは、当社の顧客である航空会社のニーズと業務慣行をより深く理解する上で素晴らしい経験となりました。ANAのエンジン性能評価手法に関する知識と厳密に収集されたデータは改善に大きく寄与しました。今回の協業により、Trent 1000パッケージCのエンジン不合格率が大幅に改善され、ANAとロールス・ロイスのみならず世界中のTrent 1000のオペレーションの混乱が減少したことを喜ばしく思います。目黒さんとチームの皆様をダービーに迎え、2回の生産的なワークショップを開催できたことは、当社の業務関係強化と改善の実現に寄与し、大変光栄でした」

予測モデルの見直しとエンジン性能評価基準の変更によって、不合格率は劇的に改善。整備工数や燃料費の削減、そして運航の安定化に至るまで、その影響は広く現場に波及していった。

振り返れば、世界の大手メーカーに勝負を挑むという選択は、無謀とも言える一手だったのかもしれない。

けれど彼らは、難しさを知らなかったから挑んだのではない。目の前の不具合に誠実に向き合い、「本当にこれでいいのか」と問い続けたからこそ、絶対的存在であるエンジンメーカーをも動かし、未来を切り拓くことができたのだ。

それは、知識や経験だけではなく、現場に宿る「誠実さ」と「技術者の矜持」がもたらした答えだった。だからこそ、ANAはこの挑戦を実現できた。

「無理に止めず、信じて見守る」――ANAの現場には、そんな静かな信頼が根づいている。静かに、でも確かに。現場から世界を変える力は、今日もANAの空に息づいている。