すべては2機のヘリコプターから始まった。創業時のDNA、未来へ。

現在、45,000人の社員が在籍し、300を超える機材を保有するANAグループは、小さな2機のヘリコプターから始まりました。第二次世界大戦後、民間飛行機が日本の空を飛ぶことが許可された直後の1952年、ANAの前身である「日本ヘリコプター輸送(通称 日ペリ)」が誕生。社員はわずか28人、民間の航空会社は他に例がなく、ゼロから道を切り開く挑戦が始まりました。創業時の1機は現存しており、今年6月に東京都大田区の訓練施設から、羽田エリアに新設された総合トレーニングセンター「ANA Blue Base」へ移設されることに。実は、このヘリコプターには、現在のANAグループの行動指針にもつながるさまざまな歴史や、先人たちの思いが詰まっているのです。

創業当時は挑戦の連続。手探りで知識を積み重ねた日々。

当時の創業者たち

日本初の民間航空会社として誕生した日ペリですが、その歴史は苦難の連続でした。資金力がなく、旅客機よりも安価なヘリコプターで事業を開始。パイロットや整備士は、慣れないヘリコプターの知識や操縦を必死で身につけたそうです。
そんな中、支えになったのが、美土路昌⼀初代社長の言葉である
「現在窮乏、将来有望」。
どんな苦境に遭遇しても、明るい未来を信じて努力すれば、やがて必ず繁栄の時が来る。この合言葉を胸に社員一丸となり、今では当たり前となったヘリコプターでの救命救助やマスコミ取材、山間輸送など、新しいビジネスモデルも確立してきました。
ヘリによる収入が支えとなり、ANAは1962年に戦後初の国産旅客機「YS-11」のローンチカスタマーとなるまでに成長。現在ANAで使われている航空コード「NH」も、日ペリに由来しています。

「ヘリがなければ今はない」企業としての成長を支え続けた。

「さびもないので、オーバーホールしたらまだ飛びそうですね」。懐かしいヘリコプター「47D-1」型機を見つめ、そう目を細めるのは、今回の移設作業を率いるベテラン整備士、伊藤剛さん。1974年に入社後、ヘリコプターの整備に3年間従事しました。「創業初期、固定翼部門の赤字をヘリコプター部門の黒字が補填していました。ヘリコプターがなければ今のANAグループはなかったかもしれません」と、伊藤さんも言います。

当時を語る伊藤整備士
ヘリのマニュアルと共に屈託のない笑顔を見せる伊藤整備士

マニュアルはない。知識と経験は直接後輩へと伝える。

今回移設するヘリコプターも、整備に関するマニュアルはほとんど残っていません。このため、今回の移設作業も伊藤さんの知識と経験が頼り。作業に参加するベテラン整備士2名と2年目~6年目の若手整備士7人は、伊藤さんからの事前レクチャーを、一言も聞き漏らさぬよう、じっと聞き入っていたそうです。
6月29日、ついに移設作業当日。現在展示されている東京都大田区の教育施設の扉を通れるよう一度解体し、トラックで輸送・搬入後、ANA Blue Base内で再び組み直します。若手整備士たちは、互いに声を掛け合いながら、慎重に作業を進めていきます。

作業前に指示を出す伊藤整備士
一つひとつ丁寧に作業を進めていきます

「どんな環境でも安全な機体を提供したい」若手整備士、思い新たに。

「貴重な機体なので、責任を感じました。ANAの起源であるヘリコプターに関われて、社員として嬉しいです」と語るのは、整備士3年目の福島一志さん。福島さんは、これまでも伊藤さんの航空機講座に参加する機会が多かったそうですが、ヘリコプターに関する知識も豊富な伊藤さんに改めて驚きと尊敬の念を抱いたそう。

今回の移設作業を機に、仕事に対する思いにも変化が生まれたようです。現在は新型コロナウイルスの影響で、便数を減らしての運航が続いていますが「どんな環境でも、『飛べない』ということがないよう常に安全な機体を提供することが自分たちの使命。お客様にとって、より貴重な機会になる1便1便を作り上げていきます」と、福島さんは気持ちを新たにしたようでした。
翌6月30日、無事にANA Blue Baseへと移設されたヘリコプター。創業時を支えたこの機体に見守られながら、常に変革へと挑み続けるDNAを次の世代へとつなぎます。現在、ANAグループも、新型コロナウィルスという大きな苦難に直面していますが、困難を乗り越え続けた先輩社員の想いを胸に、新たな道を切り開いていきます。

移設の様子はこちらよりご覧ください